代表あいさつ

お願いがございます

はじめまして、株式会社大西デンキシステム代表の大西達也です。

このたびは、弊社ホームページにお越しくださいまして感謝いたします。

弊社は、地域に根ざした小さな会社です。

1998年の創業以来、コツコツとお客さまの電気のお困りごとと向き合ってまいりました。

しかし、まだまだ弊社のことをご存知でないお客さまも多いかと思います。

それゆえに私は、電気のことでお困りのお客さまが、弊社には安心して相談することができず、ご迷惑をおかけしているのではないかと心配をしております。

そこで、お客さまにお願いがございます。

少しでも私どもを信用していただけるよう、私の恥ずかしい過去も含め、弊社について紹介させていただけないでしょうか。

どうか、ご寛容なお気持ちでお付き合いいただければありがたく存じます。

性格が真逆な両親と3兄弟

私は、昭和45年(1970年)、滋賀県草津市で生まれました。

もの静かで背中の大きな父と、おしゃべりの母。

この二人はとても仲がよくて、ケンカをしている姿を見たことは今までほとんどありません。

また、私には弟が2人います。

小さいころの“兄弟ゲンカ”は、壮絶なものでした(苦笑)。

たいていの理由は「食料の奪い合い」(笑)。

(私が)病院送りになったことも、一度や二度ではありません(長男なのですが:苦笑)。

学校貯金

小学生のころ、父は電気工事の丁稚奉公していました。

正直、当時のわが家はまあまあの貧乏(笑)。

そのことで、私が一番困ったのは給食費が払えないことでした。

集金袋を持って帰ると母が「ごめんね、来月には用意するからね」と。

払える目途もなく泣いていた母の姿は、今でも忘れられません。

やがて私は、母に集金袋を渡すこともできず、先生には「すみません、忘れてしまいました」とウソぶくようになりました。

「学校貯金」もつらかった…。

6年生ぐらいになると「いくら貯まった?」と通帳を自慢げに見せあう同級生もいたんですね(20万円以上、貯金していた子も)。

私はそんなとき「ヤバイ!」とその場を離れ、話題が過ぎるまでトイレにこもっていました。

だって、貯金総額6千円の通帳なんて見せられなかったですから…。

通帳をカバンの底に押し込め「見つかるな!」と心の中で念じていました。

制服ちゃうやん!

「制服がみんなとちゃうやん!体操服もみんなと色ちがうし…」

母の友人の子供さんのおさがり。

京都のどこか別の学校の制服(私は、滋賀県草津市の学校)。

家計に「緊急事態宣言」が出ると、伝家の宝刀「バターご飯」「卵かけご飯」でしのぐ日々…。

水道、電気が止められたことも一度や二度ではありません。

けれど、不思議と家庭環境は悪いとは思っていませんでした。

むしろ、一番幸せな時間だったかもしれません。

電気工事がおもろい

中学生になると、私は休みの日などに父の電気工事の仕事を手伝うことがありました。

それが、私が電気工事の仕事を志したきっかけです。

父が、工場の制御盤の電線をつなぐのを手伝っていたんですね。

そして、自分が工事をして制御盤が動いていることが、とてもおもしろかった記憶があります。

また、父の助手席で作業服を着て仕事に行くのが、どこか大人になった気分で誇らしくもありました。

難病

しかし、15歳(高校1年生)のころ私の人生の大きな転機が訪れます。

血友病(血小板が少なくて、血が止まらない病気)…、難病でした。

のちに7回入院し、高校生活の4分の1を病院で過ごしました。

しかも、病気が判明してすぐに薬害エイズ問題として、血友病が大きく取り上げられるようになったんですね。

そのため私は、まわりから白い目で見られ、とてもつらい経験をしました(ちなみに当時、この病気の4割の方がHIVに感染して亡くなっていました)。

私は、奇跡的にHIV感染をまぬがれましたが、しかし慢性C型肝炎に感染してしまいました(現在は、完治)。

当時は、本当につらい時期でした。

けれど「これ以上の困難はない」とも思えた3年間でした。

だから、その後の人生のさまざまな困難も乗り越えられたのだと、今は本当に感謝しています。

あこがれの道へ

高校を卒業すると、すぐに電気工事の仕事をはじめました。

世は、バブル経済。

工事は、ジャンジャンある。

あこがれの仕事なので、スポンジのように知識を吸収。

おもしろくて仕方なかったですね。

高度な工法を求められ、そのたびに貪欲に知識・技術を習得しました。

それが、現在のわが社の主力業務となっていることは私の誇りでもあります。

28歳で独立

私が独立を決意したのには、2つの大きな出来事がありました。

ひとつは、父の会社が大きな借金を背負ったことです。

バブル崩壊で、得意だった工場関連の仕事が激減しました。

そこで父は、大型新築ホームセンターの電気工事を請負うことに。

しかし、不慣れな工事で人員と材料が大オーバーしたのが原因で、父は6,000万円もの借金を背負ってしまいました。

もうひとつの出来事は、親方の感電死を目の当たりにしたことです。

守れなかった後悔…、電気の恐ろしさ。

思い出すと、今でも恐怖におびえます。

当時の私は、父の会社に在籍しつつも腕のいい親方のところで修行中でした。

そこで、親方の感電死を目の当たりにしたんです。

このときのことは、一生まぶたに焼きついて離れることはないと思います。

お願い!普通の会社員になって!

その当時、すでに私は結婚して、妻と子供が2人おりました。

独立前、妻からは「電気の仕事を辞めて、普通の会社員になって」と泣きながらお願いされましたね。

けれど、悩んだ末に出した答えは「電気工事の仕事をつづける」

なぜならそれが、家族を養うため、食うがための一番の近道だと思ったからです。

しかし、父の借金をどうするのか?…両親は見捨てられない…。

だから「私が成功して、両親の援護射撃で借金を返す」と腹に決めました。

マイナスからの独立。

失敗できないスタート。

しかし現実は、甘くはありませんでした。

いざ独立をしても、知り合いの仕事のお手伝いで日銭を稼ぐのがやっとの状態でした。

結局、何とか家族は養えたものの、父の会社はたたむことに…。

自己破産…、父の会社を救えなかった…。

その後悔と無力感に、今も苛まれることがあります。

リーマンショック

独立してから7年間は、とにかくマジメに着実に仕事に取り組みました。

そのおかげか、私の会社は下請けの順位が少しずつ上がって行ったんですね。

「大西さん、ウチの仕事してくれへんか?」とクチコミで仕事をいただけるようにもなりました。

また、大手の電気工事会社さんや商社さんからも仕事をもらえるようにもなりました。

それに合わせて、社員も道具も車両も増えて行きましたね。

事務所つきの倉庫も構えました。

しかし独立して11年目、また大きな衝撃が私を襲います。

「リーマンショック」で、仕事が激減。

当時は、社員だけでなく協力業者さんの手を借りて仕事を行うようになっていました。

けれど、社員の仕事を確保するのが精いっぱいで、協力業者さんの仕事を段取りできない…。

どうにかしようにも、どうにもならない状態がつづきました。

「社長、話があります」

リーマンショック以降、私は職人としての時間を多くこなすようになりました。

会社を存続させるためです。

しかし、会社のことに精いっぱいで社員たちの職人指導は中途半端に…。

しかも、すべてのことを自分でチェックしないと気が済まない性分の私。

結局、私は社員を信頼して仕事を任せて来なかったんですね。

それゆえに、採用と離職がくり返される始末…。

「社長、話があります。時間取ってください」に、日々ビクビクしていました。

当時の社員さんたちには、成長するよろこびを感じさせてあげられなかったことを今でも後悔しています。

仕事の本質とは?

この時期は、私にとっても会社にとっても大変な時期ではありましたが、それを乗り越えることができた今となっては、とても多くのものを学ばせていただいた時期だったと言えます。

そして、その中で「仕事の本質」に気づかされた出来事もありました。

会社の近くにある、大手製造工場の電気工事に行ったときのことです。

ある朝、工場のえらい方がめちゃくちゃ怒っていたんですね。

原因は、コンクリート基礎の施工方法。

えらいさんと元請け業者の監督さんで「言うた、言わない」で泥仕合。

すると突然、怒り心頭のおえらいさんが「電気屋さんどう思う?」と私に“絶好の(!?)”キラーパスを送って来られたんです(笑)。

そこで私は、根性を出して「では、この方法ではどうでしょう?」と丁寧に提案しました。

そうしましたら、えらいさんのお怒りがだんだんと静まりはじめ、そこから少しずつ話がまとまり、最終的には事なきを得たんですね。

このとき私が感じたことは、本当の原因は工事内容ではなく「お困りごとを解決する姿勢」が業者全員になかったということでした。

電気工事をするのではなく、お客さまのお困りごとを解決する。

そして、みなさまから「ありがとう」を言っていただけるようにする。

仕事の本質とは「ありがとうをもらうこと」だと思えるようになった“事件”でした。

やりたいことノート

さて話は、17歳のころに戻ります(血友病と薬害慢性C型肝炎だった私)。

当時のお医者さんからは「やがて肝硬変、肝がんへ悪化する。君の寿命は25年ぐらいだね」とハッキリと言われました。

「仕方がない、40歳の死を意識して生きることにしよう」

やがて、そのように考えることにしました。

そして「人生、太く短く豪快に」こんな生き方をしようと考え、やりたいことや行きたいところをノートに書き出しました(とは言え、恥ずかしい子供じみたことばかりです)。

それが、以下のようなことでした。

  • 20歳で結婚する
  • 子供の運動会に出る
  • 30歳で独立
  • 家族にマイホームを残す
  • 黒マグロを釣る
  • カンプノウでサッカー観戦
  • 海外で仕事をする etc

 

実は、このとき書いた17歳~40歳までにやりたかったことは、現在ほとんど達成されています。

死ねなかった(!?)

私の人生が終了する予定の40歳になるころ、町のお医者さんに「医学は進歩してるから、もう1回ダメもとで治療にチャレンジしないか?」と勧められたことがありました。

正直「ほんまかいな」と思いながらも治療を受けてみたところ、1年後「完治したよ」と(えらい、あっさり…)。

ところがです。

うれしさよりも「どうしたらええんや」としか思えない。

だって「オレの人生は40歳まで」と、死んだ後の準備も万全にし、遺書も書いていたぐらいでしたから。

40歳以降を生きていく、イメージがないんです…。

感謝と恩返しの法人設立

途方にくれ、ひと月ボーっと過ごしました。

そのとき、じわじわと走馬灯のようにこれまでの人生を思い出したんです。

すると、涙があふれて止まらない…。

妻、子どもたち、両親、兄弟、社員、協力業者さん、お客さま、友達、恩師、あの人、この人…。

ご縁があった大切な人たちの顔が、つぎつぎと思い浮かんでくる。

「みんなに支えられて、生きてきたんやな」

感謝しかない。

「まだ、生かしてもらえるんや」

だったら私は、これからをどう生きていくべきか…。

一度は死んで、生き返ったような身やから、それならもういっぺん死ぬ気で私と会社を育んでくれた滋賀・地域・みなさんへ「感謝と恩返し」をする。

そのように気持ちを固め、私は2012年に法人設立をいたしました。

当たり前の幸せを届ける

私は、電気を止められてしまう生活を経験してきましたし、つねに死と隣り合わせのような人生を歩んでまいりました。

しかしそれゆえに、電気のある暮らしや、家族や大切な人たちが元気にいてくれることが幸せだということを深く実感しているつもりです。

だからこそ、今、私が届けたいもの。

それは、ただただそこにある「当たり前の幸せ」です。

電気があると、暮らしが明るくなる。

暮らしが明るくなると、人生が明るくなる。

みなさまの暮らしに“当たり前”のようにある電気。

そんな“当たり前の幸せ”を、私たちはお届けしているのだと考えております。

10期目:仲間とともに

2021年で、わが社は創業23年。

法人設立をして、10期目という節目を迎えることができました。

本当に、みなさまに感謝しかありません。

そしてその道すがら、たくさんの出会い・支え・別れ、そしてよろこび・やりがい・悲しみ・後悔…と消化しきれない複雑な想いを積み重ねながら、私たちは歩んでまいりました。

私たちは「仕事をしている意味、生きている意味」に気づきはじめています。

命、人生はいつか必ず尽きるもの。

とりわけ私などは、生かしてもらえてる人生。

だから私は、わが社のことだけではなく「関わるすべての方々の“豊かな人生”に貢献する」ことが使命なのだと感じています。

そして、それを共有してくれる社員、協力業者さんたちと、日々、汗を流しております。

今、私たちはお客さまから頼りにしていただいています。

「ありがとう」と言っていただいています。

そして私は、これからも感謝を忘れることなく「ありがとう」をたくさんいただけるよう社会に貢献してまいります。

「ありがとう」それが、私たちの原動力です。

最後に、私たちは、これをご覧のあなたのお力にもなれればと思っております。

そして、たとえ微力であったとしても電気のチカラであなたの心を明るく照らすことができたなら、私たちにとってこれほどうれしいことはございません。

あなたの“当たり前の幸せ”が、いつまでもつづきますように…。

最後までお読みいただき、ありがとうございました<(_ _)>

電気についてのお困りごとがございましたら、まずはお問い合わせください。

追伸:予定になかった人生

先ほどもお伝えしましたとおり、私の人生は40歳だと思っておりました。

そのため、その後の人生において“思ってもなかった事態”にさらされております。

例えば、コロナだってそうです。

(コロナ禍の時期に)近所の人気の定食屋さんに行ったときのこと。

お店の入り口には、検温器を右手に、左手にはアルコールスプレーの“二刀流”おばちゃん。

検温&消毒が、私の順番になったつぎの瞬間。

おばちゃん、私のハゲ頭にシューっと消毒。

しかも、すぐに検温し直すべく検温器を差し出したつもりが、テンパったおばちゃんによる本日2回目のハゲ頭への“シュー攻撃”。

これには、まわりのお客さんは大爆笑…。

こんな時代ですから、みんなが笑えたほうがいいですしね(苦笑)。

生かしてもらえてる人生…。

まだまだ楽しみはつづきます(笑)。

電気についてのお困りごと、ぜひ一度、お問い合わせください。

タイトルとURLをコピーしました